わかっていたつもりだけど
わかっていなかったのかもしれないなぁ
「そもそもが違ったとして」
前提があるのとないのとでは
次元が違うような気さえしてしまいます
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同じ問題に直面したとしても
どう捉えるかは人によって違っていて
「これは問題だよね」
という認識は同じだったとしても
その問題自体に対する重要度も
若干違っていたりします
その重要度に対する
温度差みたいなものに気づかずにいると
(こっちはこんなに真面目に話しているのに)
あるいは逆に
(そんなに肩に力を入れる必要ある?)
などと
相手の口調や態度に文句を言いたくなってしまいます
その認識についてやり取りしておくことは
一見面倒くさいような気がするけれど
そこをスルーしてあとから拗れる方が
よっぽど面倒なのではないかと私は感じています
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「そもそもが違う」
「じゃあ、どこがどんな風に違っているのか」
「お互いに相手に対してどんな認識でいるのか」
そこを開示してすり合わせしていく作業は
時に心が痛かったり苦しかったりもするけれど
それらを乗り越えた上でのやり取りでこそ得られる
何とも言えない清々しさや爽快な感じは
他の場面ではなかなか感じられないものだなと
あらためて実感しています
そこには
自分自身の感情をくまなく眺めたり認めたりしつつ
相手にも言葉で伝えていくことが必要なので
とてもエネルギーのいることですが
私にとっては大切なことです
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「そもそもが違う」
ということを
お互いに認識した上で穴埋めしていくことによって得られる
新たなコミュニケーションの形や関係性
特に家族に対しては
相手にこちらをわからそうとしていたところがあって
それは
自分寄りにコントロールしようとしていたということです
「そもそもが違ったとして」
そんな前提からスタートしてみることで
思い込みや怒りのクセにとらわれず
自分自身の感情とうまく付き合っていけるような気がしています
(特に子どもたちは四者四様なので)
怒りの感情と上手に付き合う
アンガーマネジメントコンサルタント
山本周子(やまもとちかこ)
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